超光速の世界

いまじゃあ太陽系内のことにすら視線が向いていない情勢ではあるが(だからこそ小川一水第六大陸』(ISBN:415030727X)は面白かった)、ふた昔前、超光速宇宙船が銀河を駆ける未来が小説で描かれていたことがある。
大人になったいま、そんなものは絵空事でしかなく、自分が存命のうちにそんな未来はありえないと理解しつつも、考えないこともない。


人類が、他の恒星系へと進出する可能性は今の社会情勢を見る限りにおいてお寒い限りではあるが、まああるとしよう。いくつかの恒星系に進出し、ゆるやかな連合体が出来上がるのだろう。入植初期のうちは、どうしても後方支援が必要だろうから、物資・人材の輸送を中心にした航路が設定されるであろう。
特別な技術的発展がない限り、輸送手段は亜光速宇宙船である。光速のほんの手前まで加速できるとし、加速・原速の時間がものすごく短いとしても、星々の間の移動時間はその距離、光年よりも短くなることはない。
すると何が問題になるかというと、恒星間宇宙船に乗り込んだ場合、主観時間と実際に経過した時間が変わってくるということだ。100光年先まで移動すれば、乗組員にとっては僅かな時間であっても(正確に計算できるが、面倒なので割愛)、世界では100年が経過している。出発点に家族を残してきたとすれば、家族は100歳加齢してしまっている。帰路に100年かかるとすれば、まず寿命で死んでいる。加えて往復の200年間の間に社会体制が変化していない可能性のほうが少ないだろう。
だから、恒星間航行というものだけでドラマになりうる。古典的なものでは『トップをねらえ!トップをねらえ! Vol.1 [DVD] 、近作でいえば『ほしのこえほしのこえ [DVD] などもそうであろう。
だが、もしそのコミュニティにおいて主観時間を一致させることが出来れば、問題は解決する。惑星内の移動も一日、100光年はなれた恒星間の移動も一日で出来るようになるならば、どんな社会になるだろうか。


SFとは日常に何か一つ変化を加えたもの、という言葉を何かの本で読んだことがある。たとえば何気ない日常生活でも、視点を猫に移せばそれはSFになる。むろんそれを描写するためには猫の振る舞い、猫の生活を知悉しなければならず、容易な作業ではない。だが、調査が必要なことは何を書くにも同じことだ。視点を猫に移すという例は、子供むけのSFの説明だったと思うが。
登場するガジェットの原理はどうでもいい。ただ、それが普遍化した社会ってどうよと考えるところにSFというものがあるのではないか。


とまあ、なんでこんなことを朝っぱらから考えたかというと、朝方みた夢が「超光速航法の研究を続ける科学者、彼を思慕する女性科学者。ある日、女性科学者は従来にない画期的な理論を導き出すが、それを公表することは彼女が思う科学者のこれまでの人生を否定しかねないものであった。女としての感情と科学者としての立場の狭間に苦しむ科学者」というものだったもので。
就寝前にid:kitousiさんがオリジナルSFについて言及していたのを読んだことが、記憶のどこかに残っていたのだろう。