少女ヘジャル(Hejar/ Büyük adam küçük aşk)

id:linda3:20040616#p2でも書いた、少女ヘジャルを鑑賞しに行った。
予想を裏切らぬ面白さでした。愉快という意味の面白さではなくて、印象深かったという意味で。
あのアララトアララトの聖母 [DVD]がすでにメディア化されているくらいなので、これももしかすると早晩DVDになるかもしれないが、それはともかく機会があれば観るべし。損はしない。
ただ、全然知識がないと話の半分も理解できないだろうから、劇場で観る場合はあらかじめプログラムに目を通して映画の背景を把握しておくと良いかと。
ところで原題、なんていう意味だろう。フリーでオンラインの翻訳サービスってトルコ語扱っているところないしね……図書館に行きますか。

・あらすじ:公式ホームページを参照。あまり補足することもなく。

・感想:トルコ国内におけるクルド人問題は根深くて、共和国建国までさかのぼる。トルコ建国時「国内にはトルコ人しかいない」ということでクルド人は「山岳トルコ人」と称され、独自の文化を禁じられた(一部解禁されたのはこの10年くらいのこと)。同時期、トルコ国内では極右運動が高まり、クルド人との対立が激しかった。クルド人の過激分子が潜伏する村は、軍が介入して文字通り灰燼と化した。そのあたり、東部戦線のパルチザンを描いた炎628を彷彿とさせる(いちおう自国民なので、住民を根絶やしにはしないが)。すべてを失ったクルド人は親戚、同郷出身者を頼って散っていくが、財産もなければ職もない身、経済的にも立場的にも困窮し、スラム同然の場所で暮らす。
それはクルド人の居住地に限らず都市部でも同じで、過激派が潜伏していると判明すれば警官隊が突入し、部屋の住民もろとも抹殺するのが日常であった。少女ヘジャルは、先に述べたように故郷を灰燼にされて行き場を失い、親族のコネで都市部の弁護士家庭に預けられていた。が、その家庭にも過激派の一人がいて、警官隊に突入されヘジャルを残して皆殺しである。弁護士には何の罪もなかったというのに。
そのあたりが問題になったのだろう、公開後上映禁止命令が出た。が、監督はもとより俳優すら抗議の声をあげた。
プログラムから引用すると、シュクラン・ギュンギョルは次のように発言している。

「トルコでこれほど受賞を重ねた作品が上映禁止になるというのは恥ずべき行為だ」

監督は政府を相手に裁判を起こして勝訴、上映の権利を勝ち取っている。
 
それを知って思ったのは、日本のマスコミやらメディアやらである。何かあると「自粛」といって作品をひっこめてしまう。商売としては正しいのかもしれないが、表現者としてそれは正しいのか。
またプログラムからの引用になるが、監督は公開禁止命令にこう語る。

いかなる国においてもどのような理由によっても、芸術作品の発表禁止というのはその国にとって不名誉なことです。この事件(公開禁止のことか?)は永遠にトルコ国民の心の傷になるでしょう。
(強調部、カッコ内は自分の修飾)

近年、小学生が被害者になる事件が発生すると、番組や映画が放送を取りやめたりすることがある。自粛は日本人の美徳の一つだと思うが、メディア関係者は作品を公開する気概を持つべきだろうし、視聴者は作品に込められたメッセージを受け止める勇気が必要なのではないか、とこの映画をみて強く感じた。

映画のラストシーンなど、非常に感動的であって、周囲からはすすり泣く音も聞こえたが、自分はこの作品の監督らと、日本のメディア関係者の対比に暗澹とし、泣くことも出来なかった。
 
ちなみに映画のタイトルにも使われているヘジャルとは、クルド語で「抑圧された人」の意味である。
作中、ヘジャルとようやくクルド語で単純な会話できるようになった元判事が、クルド後で彼女に名前を尋ねて教えてもらい、「いい名前だ」と笑顔で微笑んであげるシーンは、感動的な絵だけにものすごい皮肉である。
  
で、原題の「Büyük adam küçük aşk」を単語一つずつ訳していくと「大きい」「人間」「小さい」「愛」となる。英題は"Big Man, Little Love"なので英題を直訳すれば「大きな人、小さな愛」となる。
ただ、トルコ語だと「大きい」を意味する形容詞は数種類あり微妙に使い分けされるので、これで正しい訳なのはかいまひとつ自信がない。