熱でうなされているときに思いついたのだけれど

人生、自分の意思と行動で変化させられる部分がある。
一方、努力とか意識とかではどうにもならない部分がある。


その比率を、仮に95対5としてみた。変化させられる部分が95だ。
この数字の根拠はない。
ただ、数字が逆なら、誰も努力しないだろう。どうにかできる部分が大きければ大きいほど、希望が持てるというものだ。そして失敗したときは、努力ではどうにもならない部分で決まったのだと、その結果を受け入れればいい。


始めは遠くにあり、刻一刻と近づいてきて「今」となり通り過ぎては過去となる「運命」が、自分で選び取ったものなのか不可避なものだったのか、それは分からない。
けれども、だからこそ、努力でどうにかなる部分が存在すると確信していいのではないだろうか。


努力は、おそらく努力することでもっと大きくすることが出来ると思う。
例えれば一握りの雪玉を転がしていくうちに大きくなるように。周囲のものを巻き込んで、最初のそれ自身よりも大きくなり、偶然もうひとつの雪玉に出会えば雪だるまになるように。


だから思うのだ。
この先いろいろあるだろうが、精一杯やって、結果を受け入れていこうと。
精一杯やった以上、成否は自分の関与できない5%で決まるのだと。
成功も失敗も、すべて自分にあるのではなく。
かといって、すべてが他者の所為ではなく。
そう考えながら生きようと。