波打ち際

海はどこまでも海で、自分の存在に関係なく海であり続けた。
それは当然なのだが少し悔しくもあり、自分は砂浜に目を逸らした。
波によって打ち上げられ、置き去りにされた貝殻たちが、波打ち際から距離をおいたところに集まっていた。
しゃがんで、拾い上げ、一つずつ観察してみる。
浅学なため名前は知らないが、よくある貝だった。だが、形が悪い。子供が拾うとしたら対象外にされるのだろう。だから、かえって自然なのだと感じた。図鑑に載っている絵写真はそれが本来あるべき姿であり、自然はそこに生きるものをあるべきままに抱擁してくれるほど寛容な存在ではない。そして貝殻はどんなに綺麗な形であろうと、一つの生きものの死骸である。


立ち上がり、見渡すと、砂浜に貝殻のつくる線が見えた。それは即ち、死でつくられた線。
遠目には綺麗に見えても、構成しているのは不恰好な貝殻であり、必死に生きてそして死んだものの形骸。
もう一度、海を見やる。そこにいま生きているものの多くは、こうした死の上に成立していて、そしていずれ生を奪われ死の側に来る。
海はそれを勧めもしないが止めもしない。ただ、海の一部でなくなった「モノ」を砂浜に置き去りにして、己は海でありつづけようとする。
海面のおだやかな今日の海もそうなのだ。
海とは、そういうところなのだ。


砂浜を散歩しているとやがて太陽も傾いており、明るいうちに駅まで戻ろうと、海を背にして歩き出した。